# 特別対談

# Special Talk

# Vol.21

人に愛をあげて、喜んでもらう。そのために俺たちはいる

日野 皓正(ジャズ・トランぺッター) × 中村 和男(シミックホールディングスCEO)

#特別対談   #インタビュー  

長引くコロナ禍で、人と人との関わり方の根幹が揺らぐ今、コミュニケーションの本質とは何かが問われています。失敗しても、何度でも次のチャンスを求めて立ち上がることができる米国に比べ、日本は失敗を許さない、セカンドチャンスをつかみにくい文化ではないでしょうか。それでは、許容できる社会へとアップデートするために必要なものは何でしょう。人気絶頂期の1975年に活動拠点をニューヨークに移して以来、文字通り「世界のHino 」としてアート&ウェルネスを体現するジャズ・トランペッターの日野皓正さんをゲストに迎え、中村CEOがお話を伺いました。

中村 : 日野さんとはご縁があってゴルフをよくご一緒させていただき、小淵沢カントリークラブの理事もお 願いしています。まずは、なぜこういう道に入ったのですか?

日野 : ゴルフですか?

中村 : ご冗談を(笑)。トランペットです。

日野 : ペットのほうか(笑)。これは家系ですね。父親がタップダンサー兼トランペッターだったので、銀座の靴屋で小さなタップシューズを作って、タップの練習をさせられました。9 歳ぐらいになって肺が少しできてくると、古いトランペットを渡され、「これを練習しろ」と言われ、学校から真っすぐ帰って毎日2時間トランペットの練習をしました。友達が外で遊んでいる中、一人でプープーとトランペット をやっていました。中学校のころには、父親が当時入っていたビッグバンドを辞め、違うバンドに行くことになって、「皓正、俺の代わりにサードトランペッターとして入れ。良い先生がいるから、その人に教われ」って言われて。スターダスターズのリードトランペッターの佐藤勉さんという人で、ハリー・ジェイムス※1 みたいに吹くんです。それで新宿のキャバレーに毎日通い、そこで演奏していました。休みになると多摩川まで電車で行って、日の暮れるまで練習して。そんなことを毎日やっていました。

中村 : 朝から晩までですか。トランペットをやめようと思ったことはなかったのですか。

日野 : ないですね。好きなんでしょうね、芸術とかが。おばあちゃんも15歳のときに近所のお寺さんのふすま絵を描いたりしていたみたいだし。

中村 : 日野さんも絵がすごくお上手で、中村キース・ヘリング美術館国際児童絵画コンクールの審査委員もお願いしています。個展も何度も開いていらして、アートの家系だったんですね。美術館国際児童絵画コンクールの審査委員もお願いしています。個展も何度も開いていらして、アートの家系だったんですね。

日野 : そうですね。自然に、これが俺の道と思っていました。中学のころも、かまやつひろしさんのお父さんのティーブ・釜萢さんがやっていた日本ジャズ学校というところに通って、中学校なんか二の次でした(笑)。

中村 : ジャズの世界にはどういうきっかけで入ったんですか?

日野 : 子どもの頃にサッチモ(ルイ・アームストロング)※2 が来日したときに、父親が浅草の国際劇場に連れていってくれて生で観たんです。「すげえ、サッチモだ」と感動して。ジャズのレコードが家にたくさんあったので、それを聴いているうち に自然と、俺はジャズのアーティストになるんだと思うようになりました。 ジャズをやるなら、とにかくアドリブができなくちゃ駄目だから、若いとき は新宿のジャズ喫茶で、1杯のコーヒーで10 時間くらい粘ってアドリブの練習をしたり。

中村 : ちょうどジャズ喫茶全盛のころ、『平凡パンチ』などの雑誌の表紙を日野さんが飾っていましたが、あのかっこよさは僕らには衝撃的でした。大学時代の軽音楽部でのバンド仲間にフリージャズの近藤等則※3がいたんですが、彼がよく部室や冬の寒 い校庭で夜中に日野さんの真似をして吹いていた姿を思い出します。近藤は去年亡くなりましたが、僕らの仲間では唯一のプロになりました。僕は彼と「GOING PLACES… FOR KEITH」という故キース・へリングに捧ぐオリジナルCDをプロデュースしました。この作品には近藤の情熱とエネルギーが込められています。

アメリカで受けた衝撃

中村 : プロとして活動していく中でトランペットが嫌になることはなかったですか。

日野 : ないですよ。嫌になろうが何しようが、これが俺の世界だと思っているから。とにかくこれを世界に出ていってやらなくてはと思っていたし。

中村 : 実際、アメリカに活動拠点を移し、世界各地で活躍されてきましたが、どういう思いで日本を飛び出したのですか。

日野 : 1969 年に新宿ジャズ大賞で優勝し、賞品としてアメリカ往復チケットをもらい、初めてアメリカに行 きました。ホノルル・サンフランシスコを経由して、いよいよニューヨークに入ったら、ヒッピー文化全盛時代。半裸で子どもを抱えてヴィレッジを歩いている人はいるし、もうヒッピーそのものの雰囲気でした。ジャズクラブではソニー・ロリンズ※4が吹いているし、他にもいろいろなミュージ シャンが出演するのを聴きに行って。「うわあ、すげえ」と感動したのが、最初のアメリカ旅行の思い出です。それから毎年渡米し、一緒にレコーディングしたりするうちに、アメリカでやっていきたいなと思いだして。それで、もう行ってしまおうと思って引っ越したのが1975 年6月10日。アメリカに着いたときには日本から日野が来るっていうのがもう知れ渡っていて、ジャッキー・マクリーン※5のバンドに誘われて入ったんです。当時はちょうどウディ・ショウ※6が独立した直後だったので、次に誰がジャッキー・マクリーンのバンドに行くんだろうとニューヨーク中のトランペッターたちが待ちわびているところに、変な日本人が入ったわけです(笑)。印象的だったのは、Five Spotというジャズクラブで演奏していると、休憩時間になったら白人のトランペッターが出てきて吹きだしたこと。「俺を使え」とジャッキー・マクリーンに訴えてるわけですよ。この国すげえなと思いましたね。

TOSHINORI KONDO 「GOING PLACES… FOR KEITH 」 ( 2009年2月発売)

誰でも再挑戦の機会を与えられるべき

中村 : 日野さんはアメリカに住んでらっしゃるので、日本での滞在日数は1年の半分以下にしなきゃならない のですが、それをご存じなくて税金を払うことになったとか。

日野 : そう。白金のマンションを売って払いましたが、それからは183日を超えないように気をつけています(笑)※7。

中村 : 大麻事件とか、いろいろと話題になったこともありましたね。

日野 : そんなこともありました。あれはね、インドネシアの演奏旅行から帰るときに、ドラマーがドラムの中に大麻を詰めて帰ったと言うんで、「2、3 枚ちょうだいよ」と言ったらくれたの。俺はたばこも吸わないんだけど。それを父親が空き瓶の中に入れて、 置いていたわけ。そうしたらある日、急にどかどかと麻薬Gメンがやってきて、「日野皓正だね」と言うから「はい」と言ったら「ちょっと話がある」と。父親はすぐにそれをトイレに捨てちゃったので現物は出てこなかったんだけど。「ドラマーはあげたと言っているから麻薬の密輸犯だ」って言われちゃって。ちょうど大麻取締法違反の罰則が強化された年だったから、もうテレビも新聞も大騒ぎ。結局、裁判で求刑8カ月、執行猶予3 年となって。じゃあ無罪 なんだと思ったら、執行猶予というのは有罪なんだって(笑)。いろいろありましたが、ありがたいことに評価していただき、勲章をいただくこともできま した※8。

中村 : そして、人生何があるかわからない。でも、何かあったら、それでその人は駄目なのか。たとえば、ゴルファーのタイガー・ウッズも一時はどん底だったけれど、復活したらみんながたたえた。しかし、日本にはその文化がない。人生に失敗や挫折はつきものなのに、一度の失敗で再起のチャンスがない限り、日本は本当に強くなれないのではないでしょうか。

日野 : 日本は正反対ですからね。他人を叩く風土だし、やっかみもたくさんあると思います。日本では不祥事を起こしたら恥ずべき存在として罰せられても、アメリカでは失敗を乗り越えて立ち直った人は「Comeback Kid」と呼ばれ賞賛されます。

中村 : そして、日野さんといえば世田谷のビンタ騒動もありました。報道では体罰と取り上げられていたので、僕も最初ショックを受けました。ただ、おそらく当事者間にしかわからない信頼関係があったのではないかと思いました。

日野 : そそうですね。生徒の父親からは「息子が悪かった」と謝罪がありました。そして彼は今ではすごく良いドラマーになっています。

中村 : 日ごろから誰よりも愛情深く生徒一人ひとりと真剣に向き合っているからこその行動だったと理解しています。僕はこのことで日野さんの 愛が伝わり、あらためて温かく素晴らしい人柄だと感じました。この愛にあふれている日野さんの姿勢こそが、多くのファンを魅了し続ける理由ではないでしょうか。僕はこのときのマス メディアの報道の取り上げ方にとても疑問を持ちました。このことによって日本はもっと変わらなくてはいけないと痛感しました。

「ありがとう」、「ごめんなさい」が言えない大人たち

日野 : アメリカにもひどい人はたくさんいるけど、会えば「Hello」とあいさつくらいします。けれど、日本人は黙って行ってしまうことが多い。心を 開いたらまずいと思っているのかな。

中村 : 特にコロナ禍でステイホームになって、人と人が会ったときの当たり前のコミュニケーションの方法を忘れてしまっているのではないかと 心配しています。

日野 : 愛がないんじゃないかな。愛を人にあげて、喜んでもらう。そして、笑顔ができる。そのために俺たちはいるわけじゃないですか。だから、とにかく温かく、心がこもった音を出そうといつも思っているんです。でも日本ではなかなか返してくれない。とても寂しく感じるときがあります。

中村 : バイブレーションがないわけですね。何かをもらったら、自分も返さなくちゃいけない。人間の一番大事なことだと思います。うれしいことや、悲しいことがあるのが人生じゃないですか。みんなこれを忘れ過ぎている。他人の批判ばかりしていても、アートは生まれませんよね。ビジネスも同じです。今の日本の中でこうあってほしいと思うことや、若者へのメッセージなどはありますか。

日野 : 若者が周りに怒られない社会は良くないと思います。俺たちが子どもの頃は近所の親父に怒られたりしたじゃないですか。怒られることで「やってはいけないことなんだ」と学ぶことも多かった。そういうのがないから、何をしても平気な人も出てきちゃうと思うんです。

中村 : 今、僕らが一番困っているのは、議論ができないことです。上司は「パワハラになるんじゃないか」と引いてしまうし、部下は上司が気を悪くしたら大変だ、という雰囲気があります。表面的には取り繕えていますが、みんな病んでしまっているような気がしてしょうがないんですよね。

日野 : 最近、『俺たちみんな悪ガキだ』という詞を書いて曲を作りました。「近所のじじいに怒鳴られた」とか、「親父からぶっ飛ばされた」とか、そういうのがいっぱい出てくるんだけれど、最後の歌詞は「みんな、ありがとう、ごめんなさいが言える子になろう」というもの。今はみんな言えないじゃないですか。

中村 : 本当に日本人のコミュニケーションの能力は落ちてしまいました。あらためてコミュニケーションの基本を考え直さなきゃいけないですね。

日野 : 国の上に立つ人たちもそうですが、大人が子どもたちに、「ありがとう」「ごめんなさい」をちゃんと言える模範を示さなくてはいけないと思います。

お世話になった分を返したい

中村 : 日野さん、お酒は止められたんですよね。きっかけは何ですか。

日野 : 45 歳の誕生日に自宅で目を覚ましたとき、もしこのまま酒を飲んでこんなことをやっていたら、80 歳までトランペットを吹き続けられないと思ったの。それで45歳の誕生日でスパッとやめました。

中村 : 体力をキープするために、食事や運動でもすごい努力をされているんですよね。ミュージシャンの方たちは若いころは無茶苦茶でも、年を重ねると、どん どんストイックになっていくように思います。日野さんとご一緒していても、本当に朝早く起きて、体を動かしたりされています。それから、とにかく皆さんに優しいお声をかけていただいて。

日野 : お世話になっている分を返さなくちゃいけないと思っているから、一所懸命やっています。

中村 : 僕はアート&ウェルネスと呼んでいるのですが、日野さんはアート的なことはもちろん、生きがいやウェ ルビーイングといった、大事なものを全部お持ちになっている。人生の達人だなあと思います。そしてそれを分かち与えているお姿に感銘を受けます。今後もますますのご活躍が楽しみです。今日はありがとうございました。

※1 ハリー・ジェイムス( 1916~1983 )米国のジャズ・ミュージシャン、トランペット奏者、ビッグバンド・リーダー。1930年代から1970年代にかけて米国を中心に活動し、スウィング・ジャズ・スタイルによる華麗で甘美なトランペット演奏によりジャズ・ポピュラー音楽界で人気を得た。
※2 ルイ・アームストロング( 1901~1971 )愛称はサッチモ。「キング・オブ・ジャズ」とたたえられる米国のジャズ・トランペット奏者、作曲家、歌手。
※3 近藤等則(1948~2020)こんどう としのり。日本のトランぺッター・音楽プロデューサー。
※4 ソニー・ロリンズ( 1930~ )米国のジャズ・サックス奏者。
※5 ジャッキー・マクリーン(1931~2006)米国・ニューヨーク出身のジャズ・サックス奏者。
※6 ウディ・ショウ( 1944~1989 )米国のジャズ・トランペット奏者。
※7 日米租税条約による短期滞在者免税制度により、1年間に滞在する期間が合計183日を超えない等の条件を満たせば、短期滞在国での課税が免除される。
※8 日野皓正さんは2019年春に旭日小綬章を受章されました。(編集部注)

Profile

日野 皓正 Terumasa Hino

ジャズ・トランぺッター

1942年10月25日東京生まれ。 9歳よりトランぺットをはじめる。1967年の初リーダーアルバムをリリース以降、“ヒノテル・ブーム”と騒がれるほどの注目を集め、国内外のツアーやフェスティバルへの出演をはじめ、雑誌の表紙を飾るなどファッショナブルなミュージシャンとして多方面で活躍。1989 年にはジャズの名門レーベル“ブルーノート”と日本人初の契約アーティストとなる。2001年芸術選奨 「文部科学大臣賞」受賞。 2004 年紫綬褒章、文化庁芸術祭「レコード部門 優秀賞」、毎日映画コンクール「音楽賞」受賞。また近年はチャリティー活動や後進の指導にも 情熱を注ぎ、個展や画集の出版など絵画の分野でも活躍が著しい。唯一無二のオリジナリティと芸術性の高さを誇る日本を代表する国際的 アーティストである。

中村 和男 Kazuo Nakamura

シミックホールディングス株式会社
代表取締役CEO

1946 年生まれ、山梨県甲府市出身。1969 年京都大学薬学部を卒業、2008 年金沢大学大学院自然科学研究科博士後期課程修了。薬学博士。1969 年三共株式会社(現・第一三共株式会社)に入社し、世界的に有名なブロックバスター薬であるメバロチン(高脂血症、家族性高コレステロール血症治療薬)の開発プロジェクトリーダーを担当した後に独立。1992年に日本初のCRO(医薬品開発支援)のシミックを創業。製薬企業のバリューチェーンを総合的に支援するビジネスモデルを確立。現在では、これまでのビジネスモデルを発展させ、個々人の健康価値向上に貢献する企業を目指している。

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